2005/08/03

コストと利便性を追い求めて失うもの


昔から新しい文化や思想が台頭してくると、その出現によって生じる変化を憂える人たちというのは必ず出てくるわけで。現在では技術(=モノ)に対して特にそうかな。たかだか30年の人生を思い返してみても

ウォークマン、電子レンジ、食器洗い機、ファミコン、ファーストフード・・・

こ れらが世に出て流行り出して来たときに、何かしらの"anti-newness"的オピニオンを新聞記事や TVの街頭インタビュー(作為的に無理やり抽出だろうけど)で見たのを覚えてる。「コミュニケーション拒否の姿勢だ」、「家族崩壊の引き金だ」、「怠惰に なる」、「バカになる」、「太る」、「死ぬ」、とか。

「変化」を恐怖する人たちの拒否反応。そうした人たちは、新しい技術は便利だけど必要じゃないと考える。「んなもんなくても生きてけるワイ」とかゆうアレだ。

しかしそういう脳内シミュレーションほど不毛なものもなくて。なぜなら↑を想うときには、変化は既に起こっているし、より便利でより低コストなソリューションを知ってしまったヒトは、よほどの理由がない限り変化以前には戻ろうとしないからだ。結局最後には慣れる。

@ITのIT徒然草—コストと利便性を追い求めて失うものも、結局は「昔は良かった」的回顧エッセイなんだけど、同感するところもとても多く個人的には興味深い。

そしてこのIT進化フローは形を変えこそすれ決して止まらず、ドッグイヤーだがマウスイヤーだがでさらに多大な利便性と、破滅的な難解さと、そして悲劇的な文化喪失を生み出し続けることでしょう。